化学・素材メーカーのMI活用を、技術と推進の仕組みから読み解く企業別シリーズ。第1回は、日本の化学・素材メーカーのMI活用事例11選の売上高順に従い、ENEOSを取り上げます。
この記事で学べること
- Matlantisを中心に、計算科学とAIを材料探索へ組み込む技術の考え方
- 研究開発、AI専門組織、外部パートナーが連携する役割分担
- 異分野の専門家が材料開発を学ぶ実務と、社外の教育・普及活動
- 探索の効率化、実験検証、サービス事業化を分けて評価する方法
ENEOSのMIを理解する鍵は、材料を探索する技術と、その技術を使い続ける組織・事業の仕組みを一緒に見ることです。高速な計算が可能になれば、試せる候補が増えます。その候補を実験へ渡し、得られた知見を次の開発に使うためには、材料の専門知識、人材、連携先との役割分担も必要になります。
本記事は2026年10月25日までに確認した公開資料に基づきます。売上規模の集計単位は親記事のENEOSホールディングスですが、本文ではENEOS株式会社、ENEOSホールディングス(以下、ENEOS HD)、Matlantis株式会社を区別します。年次のある組織・実績は、その資料の発表時点として扱います。企業公表の事実と、そこから得られる編集部の考察も分けて示します。
1.なぜENEOSはMIに取り組むのか
エネルギーや素材の開発では、候補となる物質の種類、組成、構造、使用条件を組み合わせると、検討対象が膨大になります。加えて、活性、安定性、コストなど複数の条件を満たす必要があります。研究者が実験へ進める候補を選ぶ段階で、計算が果たす役割は大きくなります。
ENEOSは、実験・シミュレーション・AIを組み合わせた材料開発を公式に紹介しています。また、2026年のTOCAT10で触媒開発に関する講演を行い、計算科学と実験・文献情報を組み合わせる取り組みを発信しています。[1][12]
この方向を実務の言葉に置き換えると、「どの材料を実験するか」と「なぜその材料が有望か」を、データと物理・化学の両面から考えることです。MIの基礎は、マテリアルズ・インフォマティクスとはで解説しています。
| 観点 | 記事で確かめること |
|---|---|
| 技術 | 候補の探索と、材料の挙動の理解をどう支えるか |
| 組織づくり | 課題設定、計算、実験、事業化を誰が担うか |
| 人材育成 | 異分野の知識を学び、実際のテーマへ使う機会があるか |
| 外部連携 | 自社の化学知識と外部のAI・計算技術がどう補い合うか |
| 事業への貢献 | 研究工程の変化が、製品やサービスへどこまでつながったか |
2.技術|Matlantisで原子の振る舞いを材料探索へつなぐ
2-1.Matlantisは何をするツールか
Matlantisは、ENEOSとPreferred Networks(以下、PFN)が共同開発した原子レベルのシミュレータです。2021年7月、共同出資会社のPreferred Computational Chemistry(以下、PFCC)からクラウドサービスとして提供が始まりました。PFCCは2025年7月にMatlantis株式会社へ社名を変更しています。[2][11]
一般的な実験データの回帰モデルでは、組成や製造条件から測定物性を予測します。一方、原子レベルのシミュレーションは、原子の種類と配置に基づいて材料の状態や変化を調べます。両者は、扱う入力と予測対象が異なり、開発課題に応じて組み合わせられます。
Matlantisでは、学習済みモデルと計算環境をサービスとして利用できます。計算資源や環境構築を利用者ごとに一から準備する負担を小さくし、材料探索へ取り組めることが、提供開始時に説明された特徴の一つです。[2]
2-2.コア技術PFPと機械学習ポテンシャル
コア技術であるPFPは、原子の配置からエネルギーや原子に働く力を推定するニューラルネットワークポテンシャルです。2022年の原著論文では、45元素の組み合わせを対象としたモデルと複数の適用例が報告されました。この45元素は当該論文で扱った範囲であり、現在のサービスの対応元素数を意味しません。[3]
イメージしやすい例は、触媒表面に分子が近づいたときの振る舞いです。どの位置に吸着しやすいか、反応の途中でどの構造を通るかを調べるには、多くの原子配置を評価します。一つひとつの評価を高速に行えると、探索する構造や候補材料を増やせます。
ただし、計算結果から実際の性能を判断するには、表面の状態、温度、組成などの前提をそろえる必要があります。用途に近い系で参照計算や実験と比較し、順位付けや反応機構の解釈に使えるかを確かめます。材料モデルの評価では、適用範囲の考え方も参考になります。
2-3.材料設計と反応経路探索へ広げる
ENEOSの研究紹介には、メタノール合成触媒の探索、グリースの構造と性能の関係の解析、重合添加剤の探索などが掲載されています。物性の予測に加え、構造や反応の理解を設計指針へつなぐ使い方が見えてきます。[1]
さらにHPCシステムズ、PFCC、ENEOSは「GRRM20 with Matlantis」を共同開発し、2024年3月に提供を開始すると発表しました。反応経路を探すGRRMと、高速な原子レベル計算を組み合わせた仕組みです。想定した一つの反応を調べる作業から、複数の反応経路を探索する作業へ、計算の用途を広げる事例といえます。[9]
3.組織づくり|材料・計算・事業をつなぐ役割分担
3-1.AI専門組織をグループの活用へつなぐ
ENEOS HDは、2025年6月1日付でAIイノベーション部を設置しました。公式発表は、グループでのAI活用を推進し、業務効率化などのイノベーションを具体化する目的を示しています。MI専任組織という範囲を超え、グループでのAI活用を担う部署として位置付けられています。[4]
2025年12月の公式インタビューでは、同部が中央技術研究所から独立したこと、AI改革、データサイエンス、MI技術、デジタル事業開発の4グループがあることが説明されています。研究所で培った技術を、社内の課題解決と事業創出へつなぐ機能が確認できます。これは当該インタビュー時点の説明です。[5]
3-2.計算する人と実験する人は、何を受け渡すのか
採用サイトの研究者インタビューでは、実験グループと必要な触媒性能を相談し、計算で有望な材料を提案し、その後に合成・評価を進める流れが紹介されています。計算結果を実験で検証する具体的な協働例です。掲載当時の所属表記を、現在の組織図へそのまま当てはめない読み方が必要です。[6]
ここから得られる編集部の考察は、役割分担を「材料担当」「AI担当」という所属だけで決めず、判断と成果物まで具体化することです。たとえば計算担当からは、候補の順位に加えて、計算の前提と選定理由を渡す。実験担当からは、結果とともに合成・測定条件を戻す。この往復が次の判断を改善します。
| 工程 | 共有する内容 | 次の判断 |
|---|---|---|
| 課題設定 | 必要な性能、利用条件、変更できる材料範囲 | 何を探索対象にするか |
| 計算・探索 | 候補構造、評価指標、計算条件、選定理由 | 何を合成・測定するか |
| 実験評価 | 試料の実態、測定条件、性能、予測との差 | 候補を進めるか、探索を見直すか |
| 実用化検討 | 製造条件、品質、コスト、供給上の制約 | どの条件で製品開発へ進めるか |
この表はENEOSの社内規程や承認手順を再現したものではありません。公開された協働の流れを、自社で役割を考えるための形へ整理しています。人員規模、予算、案件の採否基準、事業部への配置などは、今回の参照資料からは具体的に確認できません。
4.人材育成|異分野の専門家が実務を通じて学ぶ
4-1.データ解析の経験を材料探索へ広げる
前述の研究者インタビューでは、製造工程のデータ解析を経験した入社者が、分子シミュレーションの専門家から計算方法を学び、触媒探索へ取り組んだ経緯が語られています。経験者採用による専門性の獲得と、配属後の学習を組み合わせた個人の事例として読むことができます。[6]
人材育成の観点で参考になるのは、既に持つ専門性を起点に、新しい分野の仕事へ参加できる点です。統計やプログラミングに強い人が化学計算を学ぶ場合も、材料研究者がモデルの評価を学ぶ場合も、具体的な課題と相談できる専門家があると、知識を実務へ結び付けやすくなります。
以下は編集部の整理です。MI人材の学習目標は、コードを書けるかだけでなく、①材料課題を計算可能な問いに変える、②計算条件と限界を説明する、③実験との差から次の提案を変える、という行動で定めると、実務での成長を確認しやすくなります。
4-2.大学講義とユーザー教育は、対象を分けて読む
ENEOSは2026年4月、Matlantisを用いた大学講義・体験実習を4回実施したと紹介しています。対象は東京大学、京都大学、東京科学大学での講義などで、CO₂吸着剤や脱臭剤の設計体験が含まれます。開催日は2025年10月から2026年1月です。これは学生らを対象とする産学連携の教育活動です。[7]
一方、PFCCは2023年12月、スキルアップNeXtのMI講座を対象に、Matlantisユーザー向けの受講費補助を発表しました。Python、数学、機械学習、化合物解析などを学ぶ支援で、ENEOS社員向けの社内研修とは対象が異なります。補助制度は当時の発表内容であり、現在の募集状況は提供元で確認が必要です。[8]
このように、社内の実務での学習、大学での体験機会、サービス利用者への教育支援は、それぞれ対象と役割が違います。ENEOS全体のMI研修の修了者数や、研修後の研究成果への効果については、今回の参照資料だけで評価できません。公開された具体例を押さえることで、育成制度についての推測を避けられます。
5.外部連携|化学知識とAI・計算技術を組み合わせる
5-1.PFNとの共同開発からサービス提供へ
Matlantisの提供開始資料では、PFNの深層学習技術・計算基盤と、ENEOSの化学領域の知識・ノウハウを組み合わせたことが説明されています。共同開発した技術を提供するため、2021年6月にPFCCを設立し、翌月にサービス提供へ進みました。[2]
Matlantisの会社沿革には、2024年6月の三菱商事との業務資本提携、2025年7月の社名変更も掲載されています。共同研究、サービス提供、販売・展開のための連携が、時期を追って加わった形です。設立時の出資比率を、現在の比率として扱わない点にも注意します。[11]
5-2.NVIDIAとの取り組みで、探索を大規模化する
2025年12月、ENEOS HDはNVIDIA ALCHEMIを用いた液浸冷却液・酸素発生反応(OER)触媒の探索成果を公表しました。ENEOS HDは材料探索の目標と選定基準を主導し、専門知識を投入したと説明しています。性能要求をAIで評価できる指標へ変換する役割が、具体的に示された事例です。[10]
外部連携を自社に取り入れる際の着眼点は、この課題設定の部分です。「高性能な材料を探したい」という要望を、評価対象の構造、比較する指標、探索範囲へ変える。その仕事を材料側と計算側で共同設計すれば、外部の技術を実際の開発判断に組み込みやすくなります。
| 相手・枠組み | 組み合わせるもの | 取り組みの形 |
|---|---|---|
| Preferred Networks | AI・計算基盤とENEOSの化学知識 | Matlantisの共同開発[2] |
| Matlantis株式会社・三菱商事 | 技術提供と事業展開の基盤 | クラウド提供、業務資本提携[11] |
| HPCシステムズ・PFCC | 反応経路探索と高速な原子レベル計算 | GRRM20 with Matlantis[9] |
| NVIDIA | 計算高速化・ワークフローと材料探索の要件 | 液浸冷却液・OER触媒の探索[10] |
| 大学での講義・実習 | 化学・計算の学習と材料設計体験 | 次世代人材への教育活動[7] |
6.事業への貢献|研究成果と収益化を段階別に見る
6-1.まず、どの研究工程が変わったかを確かめる
ENEOSの公式研究紹介では、メタノール合成触媒の探索について、従来のシミュレーションで数年を要する計算を数週間で完了し、提案した触媒の性能を実験で確認したと説明しています。短縮の対象は計算であり、製造設備での採用や開発全体の期間まで含む数値ではありません。[1]
NVIDIA ALCHEMIの活用事例では、液浸冷却液は約1,000万種から約1,000種、OER触媒は約1億種からおよそ1,000件へ、実験評価や合成・試験を優先する候補を絞り込んだと報告されています。これらの候補数は、製品化済みの材料数を示すものではありません。[10]
| 事例 | 確認できる到達点 | 次に確かめたいこと |
|---|---|---|
| メタノール合成触媒 | 計算探索の短縮、実験での性能確認[1] | 耐久性、実用条件、製造・採用段階 |
| グリース・機能性材料 | 設計指針の獲得や探索への活用[1] | 対象製品への採用と性能・費用の変化 |
| 液浸冷却液・OER触媒 | 大規模探索から有望候補を抽出[10] | 候補の合成・評価、要求性能の充足 |
| Matlantis | 外部向けクラウドサービスとして提供[2][11] | 売上、利益、継続利用と顧客成果 |
6-2.社内開発への貢献と、サービス事業化
MIの事業価値には、少なくとも二つの経路があります。一つは、社内の材料開発を支え、性能・時間・費用の改善を目指す経路です。もう一つは、開発した技術を外部に提供し、顧客が利用するサービスへ展開する経路です。ENEOSの事例は、両方を考える材料になります。
社内開発の価値を評価するなら、同じ条件で選べる候補数、必要性能へ到達するまでの期間、実験や計算に使う総費用を合わせて見ます。計算が速くなっても、合成や測定が律速なら開発全体への効果は別に測る必要があります。反対に、候補が広がって従来は難しかった性能へ到達できれば、時間以外の価値も生まれます。
サービス事業化については、Matlantisが外部提供されている事実を確認できます。一方、今回参照した資料では、MI由来の利益増加額やMatlantis単独の損益を特定できません。したがって、本記事では「サービスとして提供されていること」と「その収益規模」を分けて評価します。
また、既存の液浸冷却液が販売されていることと、新しい探索で抽出した候補がその製品へ採用されたことも、確認すべき事実が異なります。候補探索、実験検証、採用判断を追いかける読み方は、MIの事業貢献を扱う記事でも整理しています。
7.自社のMI推進に取り入れるための3つの着眼点
ここからは公開事例を踏まえた編集部の考察です。ENEOSの規模や仕組みをそのまま導入するより、自社の開発上の判断へ置き換えると参考になります。
7-1.材料の専門知識を、探索の条件へ変える
最初に、材料・性能・制約・判断を一文にします。たとえば「反応温度と使用可能な元素を限定し、活性と安定性を比較して次に合成する触媒を選ぶ」と定めれば、入力情報と評価指標を検討できます。これは編集部の仮想例です。必要な知識を計算可能な条件へ落とすことが、AIの利用を具体化します。
7-2.実務で学び、専門家へ相談する機会をつくる
研修後に取り組むテーマと、相談する相手をあらかじめ決めます。初回は、既知の材料で計算や解析の結果を確かめる。次に、新候補を少数選び、実験との差を議論する。こうした段階を踏めば、操作の習得と材料としての判断を一緒に学べます。テーマの選び方は、MIテーマ選定の考え方も参考になります。
7-3.研究成果から、次の採用判断まで記録する
候補を提案した時点で、採否を決める性能、実験条件、試験数をそろえます。さらに製品開発へ進む場合は、品質、量産性、コストの評価へつなぎます。記録する成果を「モデルの精度」から「どの判断が変わったか」へ広げることで、MIの価値を事業側と共有しやすくなります。
8.よくある質問
Matlantisを導入すれば、すぐにMIを使いこなせますか?
計算環境を用意する負担は小さくできますが、何を計算し、どう検証するかを決める知識が必要です。最初のテーマは、既知材料の比較や、実験で確認しやすい現象から選ぶと、結果の使い方を学びやすくなります。
材料研究者全員が、AIモデルを自作する必要がありますか?
担当する仕事によって必要な能力が変わります。材料担当者は要求性能・制約・測定条件を定義し、計算担当者はモデルと計算条件を検証する、といった分担が考えられます。共通して必要なのは、結果の前提を理解し、次の実験を議論できることです。
計算が数万倍速くなると、材料開発全体も同じだけ速くなりますか?
計算、合成、評価、製造検討のそれぞれに時間がかかります。計算の高速化率と開発全体の短縮率は別に測ります。高速化によって探索範囲を広げたり、仮説を多く比較したりできる価値も合わせて評価します。
ENEOSのMIは、事業にどこまで貢献していると評価できますか?
公開資料からは、計算探索の効率化、実験での性能確認、設計指針の獲得、Matlantisのサービス提供という到達点を確認できます。参照資料で裏付けられない量産採用や利益への効果は、確認できた成果と区別して扱うことが適切です。
9.材料の専門知識と、継続して活用する仕組みを結び付ける
ENEOSのMIには、原子レベルの計算を高速化する技術、実験との協働、専門性を広げる学習、外部パートナーとの共同開発、サービス提供へ進める仕組みが見られます。技術を開発する人と、材料を開発する人、利用者へ届ける人の接点を考えるうえで参考になる事例です。
自社で始める際は、次の実験を選ぶ場面を一つ定め、必要な情報、担当者、検証方法をそろえます。小さな判断の改善を実験と製品開発へつなぎ、その効果を記録することが、MIを継続的に使う基盤になります。
本シリーズの企業一覧は、日本の化学・素材メーカーのMI活用事例11選をご覧ください。売上高順の次回対象は三菱ケミカルグループです。
参考文献・公式資料
資料確認日:2026年10月25日。ウェブページは掲載・更新により内容が変わる場合があります。組織・制度・成果は各資料の発表時点の情報を含みます。本記事は公開資料に基づく編集部の分析であり、各社の公式見解を代弁するものではありません。
- ENEOS「MIを活用した新素材開発」
- PFCC・Preferred Networks・ENEOS「Matlantisをクラウドサービスとして提供開始」2021年7月6日
- Takamoto, S. et al. “Towards universal neural network potential for material discovery applicable to arbitrary combination of 45 elements.” Nature Communications 13, 2991 (2022). DOI:10.1038/s41467-022-30687-9
- ENEOS HD「組織の改正について」2025年5月12日
- ENEOS HD「ENEOS VOICE 第1回(前編)」2025年12月16日
- ENEOS 採用サイト「Y.Y. 社員インタビュー」掲載時点の経歴・取り組み
- ENEOS「AIで材料をデザインする―Matlantisを用いた全4回の大学講義を実施」2026年4月28日
- PFCC「Matlantisユーザー向けにスキルアップNeXt社との材料開発分野の人材育成プログラムを提供」2023年12月18日
- HPCシステムズ・PFCC・ENEOS「GRRM20 with Matlantisを共同開発」2024年3月4日
- ENEOS HD「NVIDIA ALCHEMIを活用した液浸冷却液・酸素発生反応触媒の探索・最適化の加速に成功」2025年12月5日
- Matlantis「会社概要・沿革」
- ENEOS「TOCAT10にてMatlantisを活用した触媒開発に関するPlenary講演を実施」2026年9月24日

